本の小径
ここでは気ままに読んだ本の事を
書いていきたいと思います
この本は日本山岳会の図書委員会でも取り上げられたので、会報への図書紹介に手を挙げて書きました。下記は、その会報「山」(2022年2月号№921)に掲載されたものです。
写真家の三宅 岳さんは二十年以上前に『炭焼紀行』(創文社)という写真に多くの頁を割いた本を上梓している。長きに渡り山仕事に焦点を当てた取材をしていたわけだが、今回の本では炭焼きに限らず、今となっては何処にも見かけることが出来なくなった山仕事も含め様々な山人の暮らし・仕事を追い、まとめている。
内容としては、ゼンマイや筍採り、炭焼、山椒魚の漁、大山独楽や立山のかんじき作り、漆掻き、様々な形での木材の搬出・運搬、最後には阿波のばん茶作りまでと多岐にわたる。
巨樹の運材に限らず、山菜など山の恵みはすべて山から人里におりてきてこそ、“恵み”になるのだと著者は語る。そして独楽やかんじきの原材料も木であり、ばん茶を蒸す燃料も木材である。「運材は決して派手な仕事ではない」が「しかし、人々の生活の根底を支える重要かつ大変な労働であった」と記す。かつて動力のない時代に、人々は如何にして山中から何トンもの巨大な木材を運び出したのか? 「体力と智力をもって、その労働に真正面から向かっていた」今は失われつつあるその現場・人を探し求め取材する。
その一つに木馬(きんま)曳きがある。「二本の木を並行に並べ滑走面とし、そこを底面として、何本かの木を渡して荷台とする」との説明だが、もちろん動力は人力である。「とにかく人力で全身全霊を傾けて木馬を曳く」という文章からは、その仕事の荘厳なまでの人の力の極限が伝わってくる。数百キロという材を、それこそ命がけで運ぶのだ。
現在、林業界では加速度的に機械化が進み、山を歩いていても突然、丸裸になり何処までも見通しのきく皆伐された場所に飛び出し、驚くことがある。少人数での大量伐採・大量搬出、それは材価低迷の林業生き残り策ではあろうが、大型の重機を入れるために林道も幅広く取られ、あとには荒涼とした景観が残るばかり。しかし、そうした時代の流れに押し流されずに踏ん張って復活した馬搬(ばはん)が、別の章では紹介されている。馬搬は道整備にかける労力が少なくて済む利点があり、それゆえに車両による搬出に比べ山が荒れない。
しかしここではそうした利点以上に、著者は馬搬現場のみでなく、馬主の思いや生き方、世話をする馬との関わり、生活の始終、その厚情の姿に触れられたことに思いを熱くする。また写真家としてのこだわりから、雪中での馬搬撮影の機会を得ての取材では、山仕事としての馬搬の写真がまるで一幅の絵のように頁に収まっている。「時には、運ばれる丸太に立ち、馬橇のようにスーッと移動してゆく岩間さん(注・馬主)。なかなか美しい景色になっているのであった。」 そして機械を使わない仕事ならではの美しさもある。「重機を使う搬出では、一つの作業、一つの移動に、大きな機械音がつきものだが、時折の岩間さんの声と、時々の馬の鼻息ぐらいで、まったく静かなままの山である。」
こうして各章で紹介されている山仕事のそれぞれが、どのように人々が自然と関わって来たか、通奏低音のような流れをこの一冊のなかに読み取れるのである。単に記録にとどまらない著者の視点、また関わった人たちへの思いが込められているのを感じる。
お正月の時間、今まで溜まっていた既読本の整理を少ししました。
以前、日本山岳会の会報「山」(2019年5月№888)に掲載された図書紹介文ですが、いい本だったのでこの『本の小径』でもご紹介したいと思います。
パオロ・コニェッティは1978年イタリア・ミラノに生まれ、大学で数学を学ぶも中退。のち映画制作の仕事に関わり、2004年に短編集にて作家デビュー。本編が初の本格的長編小説でイタリア文学界の最高峰「ストレーガ賞」はじめ、フランス、イギリスでも受賞、世界39の言語で翻訳されている国際的ベストセラーである。
著者は幼いころから父親と登山に親しみ、現在は1年の半分をアルプス山麓で、残りをミラノで過ごしながら執筆活動に専念している作家である。
本人はこう語る。「僕は、この小説を子どものころからずっと書きつづけてきたのかもしれない。というのも、僕の記憶とおなじくらい深く、僕のなかに住みついている物語だからだ。ここ数年、どんな小説を書いてきているのかと訊かれるたびに、二人の友情と山についてだと答えていた。そう、これはほかでもなく、二人の男と山の物語なのだ。」
この物語を読み進めるとすぐに、北イタリア、モンテ・ローザ山麓の情景が(実際に知らなくても)思い描け、そこで出会う2人の少年の瞳や視線、そして、それらが見つめるその先に広がる雄大なアルプスの高嶺が瞼に浮かぶのである。それは訳者の手腕にも負うだろうが、幼いころから温めてきた著者の、山々と、友情を育んだ相手への深い思いがけれん味なく、しかし情緒豊に表現されているからであろう。
2人の友情、とりわけブルーノの寡黙であまりに純粋な精神は、この北イタリアのアルプスの山に抱かれた場以外では成り立つこともなかったはずで、つまり山が主人公の「もう1人」である。
ブルーノの、テコでも動かないような頑なな「山男」としての生き方は、誰しもができることではないがために、それゆえに生じる様々な苦難が襲う。その苦難を「友情」が縦糸、家族関係が横糸となり「山」が深く包み込む。悲しいまでに一途な男と「僕」との友情、そしてアルプスの山々、その稀有な美しさがこの小説に貫き流れ、「帰れない山」に読者を誘う。
<写真は2020年夏訪ねた北ア・黒部源流>
約140年前、まだ未開の地であった北海道十勝に新天地を求め渡った実在の若者たちの話を、カネという一人の女性の視点で語ったフィクション。
数年前より冬になると北海道へスケッチの旅を続けている私にとって、帯広は北海道のなかでも大きな地方都市の一つであり、しかも六花亭などのおいしいお菓子処として印象的だ。その帯広を始めとするあの広大な土地に「その始め、一体どのように開拓の手が入ったのだろうか?」と前々から素朴な思いを抱いていた。
そんなある早朝、NHKラジオから帯広在住のレポーターが今流行っている本の話をしたのが、この『チーム・オベリベリ』だった。聞き耳を立てて聴いていると、分厚い本であるにも拘らず、帯広の多くの市民が夢中になって読み完読している、というような話をしている。それがこの本との“出逢い”だった。
著者の乃南アサが、登場人物たちの結成した「晩成社」の存在を知ったのは「確か2008年頃、初めて帯広を訪ねたときだったと思う」とあとがきに代わる「謝辞」に記している。それまでの資料や読み物は、大半が晩成社の実質的な仕切り役であった依田勉三に注目したものであったが、著者は晩成社で苦労を共にした仲間の男たちにも光を当て、且つ「その男たちの陰には常に女たちの存在があったことも忘れてはならない」と、主人公を“チーム”の一人 渡辺 勝の妻であり、もう一人の仲間 鈴木銃太郎の妹のカネにした。
この本の題名の「チーム・オベリベリ(帯広)」は依田と渡辺、そして銃太郎三人で始めた「晩成社チーム」の物語という意味合であろう。が、真のチームとしての要は、実はこのカネのような強く賢明な女性の存在あってのことと、頁を進めるなかで繰り返し感じた。カネは文明開化の横浜で当時初であるミッション・スクールにて勉学していた“最先端”の女性でもあった。
この長編小説、日々の生活そのものがその厳しさ故にすでに劇的なものであるが、そのなかでカネと兄の銃太郎、そして父の三人は、当時の耶蘇教の信仰で挫けそうになる自己を支えて、たびたびの苦難を乗り越えていた。
特にカネはそうだった。今でこそ女性の社会進出や存在がまだまだであると取沙汰される世の中であるが、明治期は男尊女卑の真っ只中、男以上にカネの労苦はいかばかりだったかと胸が痛くなるほどである。しかし彼女はそこで子を産み育て、祈ることで毅く生きていった。その彼女の生き様こそがこの本の中の希望のように感じる。
今の北海道の都市部の発展や、各地に伸びる道路網や橋、そしてかなり淋しい限りとなってはいるが鉄道網や町を見る時、何もない原野だった地であることはすでに想像し難い。しかしスケッチで訪ねる白く凍結した平原を前にするときには、僅かながらでも明治期の彼らの苦労を想えるような気がするのである。
これからも幾度となく絵を描きに北海道を訪ねるであろうが、この一冊がその旅に新しい何かをもたらしてくれるのではないかと感じている。
<いずれの風景写真もかつての北海道訪問で撮影>
著者の白川英樹氏は、2000年に「導電性高分子の発見と開発」でアラン・マクダイアミッド、アラン・ヒーガー両教授とともにノーベル化学賞を受賞した科学者です。
この本を求めたのは東京新聞の書籍紹介欄の脇にあった「記者の1冊」がきっかけでした。
菅政権が発足してすぐに日本学術会議の6名の学者に対する恣意的とも思えるような任命拒否がありましたが、そうした政権が向かおうとする危うさに対し、「不戦の誓い継承をー軍事転用 薄れる危惧の念」という白川教授のエッセーを“ぜひとも一読を”と紹介していたからです。
この本は3部構成になっていて1部は「自然に学ぶ」と題されたエッセー集。その中の最後に上記のテーマが記されています。3部は「高分子合成を志して」と題された講演で、子供時代から研究者への生い立ち、経緯などが記されています。
注目すべきは2部の「日本語で科学を学び、考え、そして創造できる幸せー先人の努力を糧に」と言う講演録です。これは白川教授が「2000年10月11日に、外国人特派員から訊ねられた『ノーベル賞受賞者はアジア諸国に限ると日本人が際立って多いのは何故か』という問いをきっかけに、考え続きてきた事柄をまとめたもの」であり、大変興味深い内容です。
多くのアジア諸国では自国の母語で学問を学ぶことは稀で、大概は英語を使うようです。日常使う言語・思索の言語と学問する言語が一致していない、これは深く大きな問題です。
私たちが今、こうして当たり前のように「考えること、学ぶこと」が生まれた時から使っている日本語でできるのは、元を正せば江戸時代の蘭学者たちの並大抵でない努力があってこそ、と説いています。その恩恵に大きく預かり、それによって今、何不自由なく母語で最先端の研究や学びが出来ている事が記されています。
今どきは幼稚園児よりネイティブな外国語教育を取り入れている所もありますが、耳から入る外国語の吸収はそれ位幼い頃からの方がいいのかもしれません。が、この「日本語で科学を学び…」を読むにつけ、正しい日本語を身につけて、その日本語による物事の理解・学び、そして深い思索が出来なければ、いくらバイリンガル的に外国語を口では喋れるようになれても、どちらの言語に於いてもしっかりとした思考回路を整えることが出来るのだろうか?と危惧します。
「言語には伝達の道具という局面のほかに、思考の道具という性格がある。人間はことばを使うことができるから、ものが考えられる」という丸谷才一のことばに著者の白川氏も意を強くしたのでした。全く同感です。
たとえ英語が出来なくても、こうしてかなり満ち足りた文化・芸術などに浸れるのは、科学や学問と同様に母語の日本語で幅広く、且つ深くそれらを享受できるからに他なりません。
著名な国内の小説家(誰だったか失念しました)が、外国の小説家から「あなたは日本語で小説が書けていいですね」と言われたエピソードを思い出しました。何故ならその海外の小説家の出身国にはおびただしい「方言」があり、国内でも共通語と一部英語以外では通じない、まして出身地の所謂「母語=方言」で小説を書いたとしても、一体何人の人が読めるだろう、と言う話でした。なのでその作家は英語で発表するしかない、と。日本語の小説であれば、少なくとも“読める”というレベルなら1億人以上の人が居るのです。
当たり前と思ってきたこうした事が、実は先人の努力の賜物であることを知り、日本語で生活し且つ諸々、その母語で考えることのできる幸せを再確認したのでした。
この本はあの東日本大震災と福島原発事故が発生した3.11からの、双葉郡消防士たちの活動を記したルポでです。
3.11の酷さは言うまでもなく大地震に加え津波被害の甚大さと一緒に発生した福島原発の事故で、それによって福島県双葉郡の消防士たちの活動は辛酸を極めることになり、加え完全な孤立となりました。
地震発生以降、絶え間ない救急・救助活動をし続けていた双葉郡消防士たちは、その原発事故により完全な孤立無援状態になってしまいました。
それまでも極限状態での救助・救援活動でしたが、以降の消防隊員たちの活動は凄惨を極めます。本来の任務とは異なる、原発の冷却水用の水槽搬送も初期段階では要請されたり、同時に原発施設内での救助者の搬送のため繰り返し出動しました。
が、情報が極端に少ないなか「空振り」も多く、「ベント」や原発の危機的状況も知らされずに、被爆の危険にさらされながらの活動を強いられました。原発至近に居て「バン!」という爆発音や「きのこ雲」を見て「退避」した隊員など、信じがたい事実が各隊員の証言によって明かされます。
「この状態で我々が葛藤していることを、国は知っているのだろうか……」
「人のいなくなった町で、今なお活動を続け、さらに原発の冷却要請に葛藤している我々の存在を、誰が知っているのか。多くの職員が泣いていた。」
この本に記された隊員たちの事は原発事故という特殊な事情も絡み、どのマスコミにも伝わらず、誰にも知られずに=なかったことと同じに=なっていたかもしれませんでした。著者の吉田千亜の丹念な聞き取り・取材の上、こうした形で初めて公に明かされる事実の数々。
私たちは当時テレビの画面を見て、自衛隊やハイパーレスキューの隊員たちが懸命に事故を起こした原発を冷却すべく、ヘリで水を撒いたり巨大なホースで放水するのを、何とか収まってくれと祈るような気持ちで見つめていました。また最後まで原発内に留まった作業員たちは個人名は上げられずとも「フクシマ50」と英雄的に報道されもしました。
が、こうした報道に載ることもなく、それ以前より誰にも認められることもなく決死の思いで不眠不休の過酷な活動を担っていた現地・双葉郡の消防士たちが居たことを、私たちは記憶にとどめておかなくてはならないと、読み終えて再度思い直したのでした。
<この本の出版元HPはこちら 〜著者からのメッセージ・担当編集者より、が載っています〜>