志賀高原への雪山遊びはあえなくゲレンデスキーに尻込み状態で撤退。
帰路に立ち寄ったのは、行きがけに遠望した霧ヶ峰・車山の肩です。無雪期にはビーナスラインも駐車場もいっぱいの人気の場所ですが、霧と雪で真っ白な当日は冬用タイヤ装備の車がチラホラのみ。
それまで人工的なリフトやゴンドラでの昇降、圧雪機でならした山肌だった所から、俄然 静かな白い世界に放り出された気分です。とは言え、そこはコロボックル・ヒュッテのある勝手知ったる安心できる場所、しばし雪原散策に出発です。
北西の強風のなか、時折ホワイトアウト状態になりながら、何はともあれ、スノーシューの出番。腰高ほどの積雪に覆われた場所は道を外しても大丈夫です。柔らかい感触の新雪を踏みしめて自由に歩く楽しさはスノートレッキングの醍醐味。
暫くすると気圧が上がり始めたのか、徐々に周囲のガスが昇って青空が見え始めました。それまで閉ざされていた周囲が幕を開くように見え始め、極寒の白い世界と、日差しを浴び輝く雪面との異なる表情を存分に楽しむことが出来ました。帰りがけの駄賃、小さなスノトレのひとときでした。
喫茶コーナーのメニュー表にあった「コロボックルヒュッテの歴史」には、このヒュッテの生い立ちが記されていました。
昭和31(1956)年に無人境の道もない大草原で、白樺湖(大門峠)へ行くにも約6Kmの道のりを歩くだけの霧ヶ峰に、手塚宗久氏が山小屋を建てました。当時は霧ヶ峰も遭難する人が多く、登山者の安全を守る為の避難小屋としての役割も果たしていました。
当初、水は300m下の沢から運び上げていて、創業から31年間はランプ生活だったとのこと。
ここに小屋を建てた話は「邂逅の山」に詳しく、著作家としても多くの本を残した手塚宗久氏を代表する一冊となっています。2006年の6月、創立50周年を記念して「キスゲに寄す」の記念碑が建立されたそうです。私が手塚宗久さんにお目にかかったのは2008年7月のこと。その時はロッジ山旅の長沢さんの案内で、詩人の正津 勉氏、『山の本』の元編集者だった故・島本達夫氏とご一緒に訪ねました。手塚氏と三人で写してもらった記念写真は、私の宝物となっています。